(6) おそらくプライドを傷つけられたのだろう

プールの5コースある中の真ん中のコースは、唯一右側通行の制限がない。そこは、自由に泳いだり、歩いたり、遊んだりできるいわゆる親子で遊べるコースである。ある日、子供はもちろん誰一人いないその真ん中のコースで、キックボードを使ってドルフィンキックをしていたら、この時間帯には見かけない、たぶん80歳前後のご夫婦がウォーキングを始められた。自分より少しだけ遅いペースだったが、こちらがご夫婦のペースに合わせた。というかむしろ25mごとに休みが入れられるペースでちょうどいい感じだった。

 

失礼ながらお年の割には、かなり長い間ウォーキングを続けられていた。ところが、こちらのいつものキックボードのメニューが済んで桜島側のタッチサイドで休んでいたら、ご夫婦がこちらに近寄りながら、奥さんがご主人の片足を水面近くまで引っ張り上げ、足裏を天井に向けるようにして、ふくらはぎの筋肉を思いっきり伸ばされた。ご主人はコースロープにもたれかかる形になり、たまらず沈みかけそうになる。少し優しさが足りない力を込めたやり方に、このご夫婦の現在の力関係が現れたように感じた。どうやら足のどこかが攣っているらしい。

 

足が攣ることはしょっちゅうある。私は毎回ドルフィンキックで右側の足の裏が攣る。またある時、ゆっくりとしたスピードのクロールの最中に、コースを外れた人と正面衝突しそうになりびっくりした拍子に、両方の太ももの裏が攣ったこともあった。この時は両足だったので足で体を支えることができず、どうやって回復したか覚えていないほどパニックになった。

 

奥さんは、攣った場所を確かめずにふくらはぎと決めてかかっていたらしいが、実際は、反対の脛側だったのだ。真逆の処置だから筋肉がめり込む痛さを思い出す。私にはご主人の何かを訴える言葉が聞き取れないが、夫婦だから分かるのか。いやご主人はたまらず脛を指で指し示す。だから、脛であることがわかると今度は、逆に足の裏が地面に向くように足首を曲げる。それもいきなり力強く。またもそれを拒むご主人の言葉ははっきりしないが、痛みで顔がゆがむ。とにかくやめてーみたいな感じ。ついにプールから這い上がろうとするご主人。失礼だが、足が攣ってなくても体力的に自力で上がれるとは思われない。上がったら転倒して迷惑が掛かるから、水中にいて落ち着かせようと引きずり戻そうとする奥さん。だから、上がるときはコースロープをくぐってスロープを使うよう提案する。が、その内、ご主人はまた普通に歩き始めようとする。あれっ、治ったのか。もともと、大したことはなかったのに、ひどく曲げたもんだから痛かっただけかも。と思い私はその場を離れ温泉に入った。

 

しばらくして温泉からプールを見ると、ご主人がタッチサイドで監視員に声をかけられている。ほんの1、2分の間に何があったのか分からないが、奥さんは、反対側でゆったりと背泳ぎ中。ご主人は、監視員の声にシカトするように顔を伏せたままでいる。監視員はとうとうプールに入ってご主人をプールから引き揚げようとする。別の2名の監視員も何か手に持って駆けつける。その平穏をかき乱す状況は、周りの注目の的だ。こんな時のご主人の気持ちはどんなだろう。大したこともないのに大騒ぎになり、とても恥ずかしい。みんな見ているだろう。こんなことで注目の的になり、恥ずかしくて二度とこのプールには来れなくなった。と思われたかもしれない。

 

もしこんなことで気落ちしてプール通いを断念するのは悲しい。監視員さんも不本意だろう。相手がご年配であろうと、よほどセンシティブな扱いが求められるのではと感じた。

 

でも、心配はいらなかった。あのご夫婦を見かけるたびにホッとする。